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まとめ

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沖縄そばの歴史


沖縄で小麦粉を原料とした麺料理が広く知られるようになったのは明治後期以降のことであり、内地から宮崎県出身者が連れてきた中国人コックが、那覇の辻遊廓近くに開いた支那そば屋が、今日の沖縄そばの直接のルーツであると考えられている。
したがって現代日本のラーメンと沖縄そばは、先祖を同じくする兄弟のような関係にあると言える。
街中にそば屋が増え、一般庶民が気軽に食べられるようになったのは大正に入ってからのことであるが、当初は豚のだし(清湯スープ)をベースにした醤油味のスープで、具材も豚肉とネギのみと、いわゆる日本本土の支那そばと変わらないものであったようである。
その後沖縄県民の味覚に合わせた改良が重ねられた結果、スープは現在のような薄めの色となり、今日にまで繋がる三枚肉、沖縄かまぼこ、ねぎを具材とし、薬味として紅しょうがやコーレーグース(島唐辛子の泡盛漬け)を用いるという沖縄そば独自のスタイルが形成されていった。
支那そばと並んで「琉球そば」という呼称が用いられるようになったのもこの頃のことである。
木灰そばまた現在は一般的な中華麺と同様に、麺の製法は小麦粉と塩水、そしてかんすい(鹹水)が用いられるが、当時はかんすいの代用としてガジュマルなどの亜熱帯の樹木灰を水に入れた上澄み(灰汁(はいじる))が利用されることが多かった。

このような伝統的な製法の麺は、今日では特に木灰そば(もっかいそば)と呼ばれている。
灰汁は琉球染めにも利用される身近なアルカリとして一般に用いられてきた経緯があり、こうした地域性による独自のアレンジが今日の沖縄そばの原型となっていることは想像に難くない。
こうした老舗の店も、戦時中の食糧不足と沖縄戦によってすべて消滅したが、米軍占領下で小麦粉が豊富に出回るようになってからは次々と復活し、また戦争で寡婦となった女性たちが新しい店を立ち上げるなどして、戦後沖縄を代表する軽食として急速に普及していくこととなる。
店の数が増えるにともなって、それぞれの店がさまざまな具材や、鰹や昆布を用いた和風の出汁を用いるなど競い合って工夫を凝らし、県民食として発展していった。
またその一方で、ガスの普及に伴って麺打ちに使われる木灰の供給が減少したこともあって、かんすいを使用した大量生産の麺が一般的となり現在に至っている。
戦後の日本本土のラーメン文化の影響を受けることのなかった沖縄県では、復帰前の1970年頃にはすでに大衆食としての「すば」が定着し、上記の代表的なスタイルや、後に誕生する大ぶりのソーキを具にしたソーキそばは沖縄料理の定番となった。

こうして生まれた沖縄そばは、沖縄本島に定着する過程と同時、あるいは相前後しながら、宮古諸島や八重山諸島、その他の島々へも広がるに至っている。

やっぱり

歴史がありました。

麺文化はやっぱりすごいね


おいしい~~~~~~~~~~~
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